雨宿りしよう

どうでもいいを綴っていく

飽き性を考える・趣味遍歴

とんでも飽き性の雨丞です。

 

僕はとても飽き性で、いろいろな事を始めて

すぐに辞めてきました。

 

皆さんは飽き性でしょうか。

 

 

長く続いたものからだと、バンド・邦ロックにはまりました。

3年ほど追っかけみたいに遠征して、グッズを買い、フェスに参加し、

楽しんでいました。金欠になりながら。

楽しんでる自分を客観視して楽しんでいたのか、3年後に飽きました。

 

ソシャゲにもはまりました。無課金

一つのコンテンツをずっと追ってましたが、缶バッジや新商品を

買わなくてはいけないという思いが出てきて(当時は気付きませんでした)、

ストーリーを追わないとという義務感がしんどくなりやめました。

グッズを売り、部屋からアニメものを全撤去しました。

 

長く続いた趣味はこんなもので、きっと奥底に、

何かにはまっている人、一生懸命に追っている人がかっこよく見えたんだと思います。

 

その証拠に就職でも、パソコンをいじってる人がかっこいいからという理由で

IT系に進み、難なく挫折。

僕には難しすぎるし、周りの人間のマウンティングに疲れ退職。

 

そういえば学生の頃も日単位でバイトを変えたり、

かっこいいと思う趣味や好きなものも変わったりしていました。

ピアスが好きな時期もあれば、フィルムカメラに手を出したり、

髪を染めまくったり、刺し子にいそしんだり、本当に色々やりました。

 

でも一貫して好きなものがなく、続いたこともなく、

時には一度飽きたものに戻ってくることもありました。

 

僕は医者でもメンタリストでもないので、自分の趣向の変化に

見解は持っていません。

でもとても不思議で仕方ないのです。

 

インコが好きな時はお迎え一歩手前まで調べつくして尽くして尽くして

一日中インコのことを考えたりしていましたが、家族に反対されてからは

インコ動画やチャンネル登録していた動画も解除し、

生活から切り離しました。

好きだからこそ、一緒に暮らしている人の動画は心にきました。

 

手芸が好きな時はレジンや刺し子、ビーズアクセの部品まで集めきって、

結局飽きてしまい、未完成のものが増えていく中、僕の興味は薄れていきました。

レジンはまだ2か月ほどなので少し興味は残っていますが…

 

最近はまたピアスにはまり、会社に内緒でニードルを刺し刺し…

 

動画をよく見ていた時期は機材を調べて、配信者になろうと

目論んでいたこともありました。

結局僕にそんな才能ないじゃないかというもう一人の自分によって

辞めてしまったのですが。

 

飽きてしまった・やめてしまったことのそのどれもに未練はなく、

今はただ無趣味で生活しています。

 

しいて言えば今はサプリにはまっていて、3日前から飲みだしています。

でも面倒くさくてもう飽きかけています。

ただ飲むのではなく、ピルケースも用意して、

曜日ごとに違う入りのピルケースを持ち運びするようにしています。

が、それが面倒くさい。

 

当たり前だし分かってはいるが、すぐに結果が出ないし、

何となく飲みすぎ?で眩暈がよく起こるようになりました。

関係ないかもしれませんが。

 

僕の飽き性は自分の中で満足すると終わってしまうものなのかもしれない。

 

コツコツという言葉が警察と政治家という言葉の次に嫌いですが、

多分付き合った人と長く続かないのもこれかもしれないですね。

 

ゴールと決めつけて勝手に辞めてしまう。

だから何も完結できずに、極められない。

だから一番になったこともないです。

そりゃそうですよね。

 

ある男性動画配信者の方がメイクをきれいにしており、

気になって色々勉強して買い込んでも、

次の日には飽きてしまっており、

その次の日に読書に興味が移り、本を買ったと思ったら2日後には

飽きて読まなくなってる毎日。

 

よくあるのは、興味があって注文した品物が届いたころには

もう興味がなくなっているという事態…

 

何一つ続いたものはない。

ソシャゲやバンドだって、みんながやってるから、

みんなが行ってるからで趣味と称していたに違いないです。

 

次の仕事が決まっていますが、またやめるんだと思います。

これじゃだめだと思いながらも、心療内科の先生は、

待ちましょうばかり。

待ってどうなるんだ???

歳は確実に取っているというのに…

未来が狭まっている中で見つける楽しさなんてないですよ。

稚拙な大人と友人になった話 #あとがき

1,2,3と読んでくださった方、ありがとうございます。

 

拙い文章の中で何かを感じていただければ幸いです。

しかし、僕の文章は省き散らかしているので、

誤解も生まれやすいと感じたので、

あとがきを記している次第です。

 

友人とはもう5年ほどの付き合いになりますので、

友人の親がどういう者かも(ずっと聞かされており)

承知しております。

 

片方だけの言い分を聞いて判断するのは、

僕の性分ではないのですが、

少なくとも多からず、友人のわがままであることは

万人が聞いても理解してくれるような口ぶりなのです。

 

友人の母親を悲しく思う気持ちが絶えません。

 

他人の家族に入っていくことはタブーですが、

こうも毎度愚痴を言われると堪えます。

稚拙な大人と友人になった話 #3

前回の続きです。

 

 

何度思い返してみても友人の行動は、園児のそれなのです。

 

選挙に行かず政治の悪口を言い、

働かずして他人の金で飯を食い、

税金を払わず住み着いている。

 

親と話し合いを勧めたときも、

どうせ何言っても無駄だからといい、

話し合うこともせずまた課金を始める。

 

僕はその時言いたかったんです。

「真剣に話す気のないやつが、

真剣に取り合ってもらえると思うなよ」と。

 

わがままだらけの君を、唯一許してくれるのは親なんです。

 

どんなに愚息でも、ニュースに出るようなうんこみたいな親じゃないでしょう。

今も懸命に働いていて、君を赤ちゃんの頃から

30年近く、衣食住を無償で提供してくれたんです。

 

そこに本当にかけらの愛情も感じないのですか?

 

友人は99パーセントの確率でこう言うでしょう。

 

「感じないね」

 

そう返ってきた日には僕はその人との縁を切らざるを得なくなるでしょう。

雨丞がいないと死ぬと本気で言っていたくらいです。

告げた日に死なれては困るので、僕は言いません。

 

一つ確証があるとすれば、彼女は死なないでしょう。

必死に生にしがみついているのですから。

止めてくれる誰かを失ってもなお、生き続け、

垂れてくる少しの甘い蜜を吸い、生きていくでしょう。

 

僕はこういいつつもまた友人を杯を交わす。

 

己の恥を咆哮し、うたいながら練り歩くその人が求め見る光が、

いつか光る刃の先端であらんことを。

稚拙な大人と友人になった話 #2

前回の続きです。

 

 

完全に指摘するタイミングを失ってしまった僕はひたすらに

友人の話を聞くことしかできない状態になっていました。

 

うんうん、そうだね

そうに違いないね

 

否定することなく甘い賛同の言葉だけを

綴っていると、友人が自らの家族の話をし出しました。

 

「親に感謝なんてしていない」

「早く縁を切りたい」

「親と仲いい奴なんてろくな人間じゃない」

 

聞けば友人はDVを受けたわけでもなければ、

30半ばまで、実家で面倒を看てもらっていたとのこと。

まったく、ぬるいのはどっちだ。

 

アニメに夢中になり現実を酷く侮蔑し、

次元の違いも分からなくなってしまった友人にとって、

もはや「心地のいい家族像」は消えることはありませんでした。

 

家を出る際にも、親から金銭面の援助を受け何の苦労もなく何の出費もなく

引っ越しを終えていたのに、出るのは親の愚痴ばかり。

彼女には社会に適合する力はなく、仕事は日雇い派遣で食いつないでおり、

携帯が止まったり、家賃が払えず引きこもり、僕が話を聞こうと

外へ連れたときも、食事代は何度も僕が出しました。

1円単位まで割り勘を強要し、一緒に喫茶店に入ったのに、

友人は出された水以外何も口にしなかったこともあったんです。

 

電車に乗るときは座席に人が少ないからといって、

飛び跳ねながら着席したり、

クソでかいぬいぐるみを喫茶店のテーブルに置いていたり、

(写真撮影はいいと思うのですが…)

なんというか、何とも言えないこの気持ち…。

 

正直「お連れ様」として恥ずかしいことこの上なかった。

いい歳をして、自立のじの字すらないのでしょうか。

 

少し話が逸れたましたが、僕は家族を大事に思っています。

友人は僕が家族に恵まれていることをとても忌み嫌っているようなのです。

 

自分が不幸だったからと他人を卑しんで妬んで頻繁に公共の場で暴言を吐き、

何度でも僕を落胆させます。

稚拙な大人と友人になった話 #1

他人への理解が難しくってきたので、

歳を取ったことを実感している雨丞です。

 

今回のお話は、僕の友人が主人公です。

友人は僕よりも年上で、僕より子供です。

アダルトチルドレンではありません。

その理由も含めてお話していきます。

 

まず、僕がなぜこの記事をここに残そうかと思ったのか、

についてですが、世の中には自分が唯一絶対神と疑わず、

他人を傷付け平気でのうのうと暮らしている人が多いように感じます。

自分が一番かわいいという考えは僕も賛成なので、

そこに批判を加えるつもりはありません。

 

しかし、友人は度を越えており、僕の友人の中でもひときわ遊ぶのに

厄介な人なのです。

それゆえ、、このような人もいるのだと、

このような人が僕の友人として存在していた証を

ここに記そうと思ったわけです。

 

数年前に僕はとある場所で友人と会いました。

第一印象は若い人だなと思いました。

その言動、行動、全てにおいて稚拙だったのです。

しかし、これからそう多い時間を過ごすこともないと

しばらくは仲よく遊んだりしていました。

自分に害がなければそれでいいので。

 

友人は30半ばにして生足ショーパン、

よれたTシャツに使い込まれたキャップとパンパンのリュック姿でした。

とある場所というのは若者の集ういわゆるライブハウス的な場所です。

明らかに浮いていた友人でしたが、友人にもまた友人がおり、

ワイワイと楽しんでいたので、気にも留めていませんでした。

 

明るい人だなと思いラインを交換し、頻繁に会っていました。

それから1年ほどが経ち、コンスタントに会っていくうちに、

友人は僕に執着するようになっていきました。

 

「雨丞はすごいね」

「雨丞がいないと僕死んでしまうかもしれないよ」

「雨丞の言うことは全部正しい」

「死んだほうがいい人間にここまで優しくしてくれるなんて雨丞好き」

 

そこに恋愛感情はないものの、執拗に僕を褒めたり、

無用に立ててくれたりしました。

 

少し違和感はあったものの褒められることは嫌いではなかったので、

ありがとう、とその場をやり過ごしていきました。

どことなく僕も麻薬のようなその端的な心地よさを

感じていたのかもしれません。

今思えばここで関係を断っていればよかったのです。

 

会えば度々悪口、愚痴、不満など、

社会への恨みつらみを吐き出す機械のようになっていきました。

 

そこから僕の疑問は確信へと変わりました。

「これ以上この人といてはいけない」

人生の答え

涙腺が緩くなるツボが自分で分かってきた雨丞です。

 

最近、泣いたことはありますか?

 

基本僕は他人のことなどどうでもいい人間なので、

泣くことなんてほとんどないのですが、

最近どうも泣いてしまう場面が多いように感じています。

 

皆さんは自分がどういうときに泣くか把握しているでしょうか?

僕の場合は、自分の境遇と似通ったシーンや家族物でよく泣きます。

 

鬼滅の刃という漫画をご存じでしょうか?

超簡単にいうと、鬼退治です。(すみません)

 

↓↓ネタバレ注意↓↓

ある回で、人間だった時の過去に未練のある鬼が登場したのです。

未練というより、怒りとでも言いましょうか。

その人は自分は頑張っていたのに、評価されず、

悔しい思いをし、最期は主人公に自分の評価を伺います。

 

そのシーンが何とも僕の心に刺さり、抉り、

ニートだった涙腺にカツを入れました。

 

鬼という恐怖や敵という対象が一瞬にして

僕の心を揺さぶったのです。

 

かくいう僕は特に努力もせず今はぷー太郎なのですが、

人生において特に頑張ったこともなかったものですから、

何に響いたんだと言われれば答えられないかもしれないです。

ただ、彼の過去からは、自分の精一杯生み出した大切なものを

足蹴にされるという屈辱からくる悔しさや怒りのようなものが

手に取るように伝わってきました。

 

反論もできない、言い返す言葉が見つからない、

その勇気がない…

なのに吐き出したい感情は無常にも彼を鬼にした。

 

その末路に、涙は待ったなしでした。

 

自分と重ねるということはありませんが、

複雑な感情というものは、人の心を簡単に蝕んでいきます。

若しくは、行動を起こすための大きな原動力になります。

 

僕のような人間は自分という者の存在に常に心を占領され、

悩み続けて、気力を使います。

答えのないものに使う時間が惜しいと感じる暇すら与えないほどです。

 

専門家にも人の心の中まではわかりません。

有名なメンタリストでさえ、正確ではないのです。

系統を知ることも大事ですが、

一人一人の見解もまた違って良いものです。

 

 

僕のこの記事たちは、アフェリエイトでも何でもなく、

僕の日記代わりなので、読者はいませんが、

未来の僕に充てた長い手紙だと思っています。

もしここへ辿り着いた方がいればそれは奇跡で、

他人の手紙を盗み見しちゃった!って思ってください。

もし、万に一でも僕と同じ感情を持つ人がいたならば、

言葉を交えてみたいものです。

 

他人の考えというものには毎度驚かされているので、

公園で日向ぼっこしてるおばあちゃん、

チェーン店のレジが遅く顔を見合わせた学生さん、

電車の席を譲ってありがとうと優しく笑ってくれた妊婦さん、

長くかかわるのは苦手な僕ですが、

一期一会…いい言葉ですねぇ。

生きる価値とは自分で生み出すものではない

精神安定剤なんて役に立たない雨丞です。

 

精神科に通って1か月。

仕事を辞めてしばらくたちますが、変化がありました。

 

何にも興味と自信を持つことができなくなりました。

働いていても存在を発揮できなかったのに、

働くことを辞めても、それは変わりませんでした。

 

何故だろうと思って振り返ると、

そもそも仕事が主な原因ではなかったんですね。

 

自分自身の価値を決めるのは自分ではありません。

他人の評価によって自分の位置関係やその他へ影響していきます。

 

こんな簡単なこと何故気付かなかったのか。

仕事が嫌だという気持ちもウソではありんせん。

それは一つの要因でしかなかったのです。

 

今もし働くのが嫌で辞めたいなと思っている人は、

働きながらその先の将来を見ることは難しいのではないでしょうか。

考えなければいけないこと(仕事内容等)があると、

どうしても脳の容量はそちらを優先して使いますから、

自分のことに充てる時間はなくなります。

 

僕の記憶力が持続しない理由もそれだと先生は言いました。

しかし、結論から言うと、仕事を辞めても僕の思考力は衰えたままでした。

 

それもそのはず…

僕には問題が山積みなのです。

 

将来もさることながら、今自分の向かいたい方向すら

分かってないのですから。

占い師に見てもらって心を傾けようとしましたが、

それも一時しのぎなのでは…とまた心が決まりません。

占いは診察より高価ですから、収入のない僕にはすっと行けるものでもありません。

 

退職に関しては、やめた方が君のためになるといわれ、

強制的に自己都合にされました。

僕は出来るなら働きたいといったのですが、圧力で抑え込まれました。

 

何もできない僕は自分を責めるようになり、

先生の診断にも半信半疑で話を聞いていくようになり、

自信も信頼を寄せるところも、気力さえもなくなりました。

 

自己愛がない一方で、自分のことしか考えられない自己愛の塊に

なり下がった感覚です。

 

最終的に今この文章を打っている僕は、

生きる価値が見出せずに苦しんでいます。

 

自分を良くも悪くも評価してくれるものが周りからなくなったことで、

その指針すら失ってしまったようです。

 

典型的な日本人の性格と言われればそうかもしれませんが、

僕から言わしてみれば、今の人間は自己顕示欲が強すぎるように思います。

 

個性がすべて、と言わんばかりに。

生活している人もたくさん増えました。

昔に比べて働き方も考え方もずいぶん柔軟になったものです。

 

それについていけてない僕が悪いのでしょう。

自分の魅力を分かっている人は強い、一理あるかもしれませんね。